のらくろ

1934年に制作された劇場版アニメ、『のらくろ伍長』。

1934年というと、75年前。満州事変の少しあとでちょうど日本の帝国主義が強さを増していった時代。
母から話を聞いているぐらい。SPレコードの会で、当時の兵隊さんだった世代の方や憧れていた方たちの話も伺っていますので、母の女性としての戦争中の様子、心構えとは違うとらえ方も学んでいます。

わたしが幼い頃テレビアニメにのらくろが登場した時、母も懐かしそうにいろいろと話をしてくれました。共通の話題がこの「のらくろ」を通していろいろと発展させてもらえました。

あの犬は「ブル連隊長」のようね。
あれは、「モール副連隊長」さんに似ている。

などと犬の姿、犬の種類に関心を向けるような話がはじまり。

少しわたしがこどもから足を踏み出して物事を理解するようになってくると、「のらくろ」の本質も母との戦時下の女の心構えを聞かせていただく中に、生きているようでした。生きていたと確定して良いでしょうか。

のらくろの本質。
わたしがテレビアニメで楽しんでいたものは、懐古に留まるものではなかったことも幼い心に何やらのせつなさを学ばせてくれるものでした。
アニメの後半は恋愛傾向になりましたが、原作をアニメに投影しようがなかったのだと考えます。

連隊の前にみなしごのようになっている貧弱な黒い犬を連隊長が兵舎に招き入れる。それがはじまり。「のら-くろ」と名付けられます。

ブル連隊長以下、みんな白い犬なわけで、のらくろには異質な存在。何かをたとえているのかも知れません。
「のらくろ」は戦時中に内容を批難されることもなく、子どもたちが楽しむことを拒まれることもなく、映画としても制作されています。作り手が上手く反戦意識をにじませていたのか、了解し制作させた官吏の中に共感があったのでしょうか。
こどもむけとしては、表現がやや過激だったり軍事色が強かったりしていますね。
くわえて、作品としてのクオリティは高いです。日本のアニメ大国っぷりは既にこの頃からありました。

わたしは小学校の図書室にあった「のらくろ」を順に読み進めていました。末は大将にという目標で話ははたして考えてあったのでしょうか。
新年号になったというイラストの、のらくろが大将になった夢が登場します。順に成長して最高の地位に立つというゲームや、アニメのケースを思わせましたが、レールに乗っていればいけるものではありません。
のらくろの最終刊は「のらくろ伍長」で終わります。一兵卒で始まって伍長止まりとなりました。母たちの記憶にはのらくろは大将以上になった印象があったそうです。
しかも、戦車隊として出撃するのが最後ではなかったでしょうか。兵力の寂しくなった中での階級特進。読者の感謝の思いが伍長にすることが出来たように感じます。

のらくろは何故に、黒犬に描かれているのか。
終戦でという理由づけはあまりにも教科書的ではありませんか。

「信念」という表現はここには使いたくはありません。
のらくろは自信たっぷりに生きました。省みれば小さな世界だったことは確かです。それでも、わずかな戦車の先頭に立ちました。
病持ちだから、生活環境が違うから・・・・何と比較していえるのでしょう。レールを求めて行動をするのではなくて、自分らしさを見つめましょう。

リバイバルブームが訪れるのは、何らか社会的状況とも無関係ではないと考えます。そして「のらくろ」は社会生活が窮しようとする時にリバイバルされているようにわたしは思います。「のらくろ」の終盤に、あきらめを感じることも出来るでしょう。それだけでしょうか。

先日「ガラスの仮面」の続編が長い年月を隔てて復活しました。
再会ではなくて、復活でしょう。
北島マヤ。彼女は社会生活者としては不器用です。ライバルを意識して見失っていた自分に気づいて大成を予感させました。もしかしたら、それだけでこの作品は生まれでて多くの読者に喜ばれた意味は浅くないのではないかしら。

わたしは「のらくろ伍長」にも似た感慨を抱きます。

「逃げるな、飽きるな、あきらめるな、屈するな」

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