記憶。想い出の時間の中に、その時の音楽も一緒に記録としてとどめてあることがある。思い出話をしている時に、共通の記憶とは別に自分だけの胸の内で再生が開始されている音楽に漂おうとしていることがあります。
或いは、再び訪れた場所で聞こえてくる様な演奏がある。
そういうのは日頃は意識をしていないけれども、通奏低音の様に日々の風音、電車の走行音の間にいつもあったのかもしれない。
一度聞いて、この演奏家の解釈、伝えたいことが『うん、分かった!』という録音は、音楽談義の中で次々と(記憶の中で)Qだし出来るのだけれども、そうで無い演奏がマーティン・ヘルムヘンが録音したシューベルトに感じます。
録音は2007年のことですし、進化形の演奏家には次の録音に期待しよう。と言ったコメントをつけることもある。でも、5年経って聞き直してみて。これはこれで良いんじゃない。そう再認識しました。
シューベルトのピアノソナタ第20番は、若いクラシックファンには「のだめカンタービレ」が切っ掛けで聞く様になったという方もいるでしょう。ましてや、マーティン・ヘルムヘンは"イケメン"だ。ミーハーがいるだろう事は分かります。
この録音の評価は面白い様に、二分されています。まだまだ新人としての認識だった時に、レコード芸術の同じ紙面上で好き、嫌いが分かれているのは意外性がありました。これからの進化を見守りたいと濁せるものを、フルート奏者の西村祐氏は『(シューベルトの心の)痛みは巧妙に隠されているのだ』とし、連載『之を楽しむ者に如かず』で音楽評論家の吉田秀和氏は"『新しい』シューベルト"と、二重カギ括弧付きで『感心した』と触れられています。
長年のクラシック音楽の聞き手ほどに、マーティン・ヘルムヘンが演奏したシューベルトはここが抱いているシューベルトのピアノソナタ、特にこの『20番』には『痛みをはらんだ心からの歌』を聴きたいという欲求が高くある。だから、シューベルトの音楽ではあるし悪くはない。でも、どこか自分の心の中にある『シューベルトのソナタ20番(Piano Sonata in A, D 959 / 6 Moments Musicaux)』のポケットの中にはすとんと落ちてこない。
そんなもどかしさが、、、、あっても良いんじゃない。
似た様な感触があったことを思いだした。
それは、はじめてウィンダムヒル・レーベルのレコードを聴いた時だった。
ジョージ・ウィンストン。これは一体何だ。どういうピアノ録音のセッティングなんだ。いろいろな思いがいっぱいになって・・・でも、慣れると"ブルース"が奥の方で響いていた。綺麗で上品なマイセンが無機的に感じられる時がある様に、プラスティックで出来た工業製品ではなかったことが時間と共に感じられてきた様に、マーティン・ヘルムヘンのシューベルトも今後登場するであろう"新しい"シューベルトを聴き進んでいけば改めてはっきり、あーだこーだと言えそうです。
レコードやCD、映像で観ても実際に接すると印象が違うものです。古くはティボー、楽器と録音の愛称か数少ない来日時の演奏を記憶している型によると大きな響く音色だったと言うこと。ジョージ・ウィンストンも来日ライブはレコードを聴いて、同じ感じを期待した人は戸惑ったことでしょう。
さて、マーティン・ヘルムヘンはどうか。
来日も何度かありますが、この度、熊本で生の演奏に接することが出来ます。
2011年4月4日。くまもと森都心プラザホールで、ピアノ・トリオの演奏会があります。
東京でベートーヴェンのトリプル協奏曲の演奏会があるために来日。せっかくだからと言うことで、縦断ツアーがソリストたちで行われる運びとなり、熊本でも聴く事が出来ます。
《Comodo Arts Project 室内楽シリーズ第1回》
マーティン・ヘルムヘン&ヴェロニカ・エーベルレ&石坂団十郎
ピアノ・トリオ【ご予約・お問い合わせ】Comodo arts project 096-288-4635 info@comodo-arts.com
シューベルトのアナログレコードを聴きたくなったら、こちらがお薦め。詳しくはリンク先をご覧ください。 http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e588134.html
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